1998年長野冬季パラリンピックにアイススレッジスピードレースで出場し、金メダルを3個、銀メダルを1個獲得したマセソン美季さんに、「冬や雪が楽しみになる生活」をキーワードとして、2001年から暮らしているカナダでの生活から得た札幌の街づくりのヒント、札幌2030冬季大会招致をきっかけに期待する社会の変化、また、2030年に向けた子供たちとスポーツの関わり方についてのアイデアなどをお伺いしました。



障がいのあることが当たり前、新鮮だった1998年長野大会


――マセソンさんは1998年長野冬季パラリンピックにアイススレッジスピードレースで出場し、金メダル3個、銀メダル1個獲得と活躍されました。長野大会は日本で初めて開催された冬季パラリンピックでしたが、一番印象に残っていることは何でしょうか?


エムウェーブ(長野市オリンピック記念アリーナ)の中に入ったときに、すごく大きな歓声だったのですが、日本語の歓声が聞こえてくるということがこんなにうれしいことなのだなと思いました。しかも、国内であれだけの歓声の中でレースをすることがそれまでなかったので、現地で日本語の大きな歓声を聞いたということが、私の中で一番大きな思い出です。


写真:フォート・キシモト


――日本語の大きな歓声はマセソンさんにとってレースの後押しになったということですね。


そうですね。正直、1種目のときには雰囲気に飲み込まれてしまうと言いますか、緊張して自分でもそのレースのことをあまり覚えていない状況でしたが、その後に落ち着いてからはどこに誰がいるとか、あの方向から私の名前が聞こえてくるとか、全部分かってきました。たぶん、その声が他の国の言葉だったらそこまで分からなかったと思いますが、日本語だったから「頑張って」「落ち着いて」という声がしっかりと聞こえてきたので、それは良かったなと思います。


――他の国際大会などと比較して、パラリンピックだからこそ得た経験、学びなどはありましたか?


私にとって初めてのパラリンピックだったということもありますが、選手村の中で本当にありとあらゆる障がいのある方たちがごく自然にいることがすごく新鮮でした。当時、私は大学生だったのですが、車いすの学生は私一人でしたし、通学していても車いすの人に会うことはありませんでしたので、何かこう、自分は特別な存在と思っていました。また、私がやっていた競技のアイススレッジスピードレースというのは下肢に障がいのある選手たちが行うスポーツなので、車いすに乗っていたり義足をはいている選手は私の周りにいましたが、逆にそれ以外の障がいがある選手たちには日常的に接する機会はありませんでした。なので、選手村の食堂などで両腕のない選手や視覚障がいの選手が食事していたりとか、ゲームセンターや美容室に通っていたりなど、みんなが違和感なく溶け込んで、それが特別なことではなくて当たり前という世界が私にとってはすごく衝撃的で初めてのことでした。障がいのある人が大勢いることが当たり前で、逆に障がいのない人たちがマイノリティな世界は、それまでは経験したことがなかったので、不思議で、それと同時に居心地が良く、それがすごく新鮮だったなと思います。


写真:AP/アフロ


――その長野大会での経験がマセソンさんのその後の人生そのものや人生観に大きな影響をもたらしたということにもなりそうですね。


そうですね。長野大会のカフェテリアで今の夫にも出会っていますし(笑)、いろいろな意味で大きな影響となりましたね。



雪国の生活というイメージが全く変わった


――そうだったのですね(笑)。では、ちょうどマセソンさんからご主人の話題も出ましたので、現在の生活に関してお聞かせください。ご主人と出会われて、結婚を機にカナダのオタワに移住されたとのことですが、カナダに移ったのはいつですか?


2001年になります。気が付けばもう長く住んでいますね。


――オタワという土地についてですが、冬場はどのような環境になるのでしょうか?


一番寒いのは1月、2月ですが、その時期は-30℃くらいまで気温が下がり、近くにある運河がその自然の気温で凍ってしまうほどです。その凍った運河がスケートリンクとして開放されます。例えば、我が家では子供が小さいころには自宅の庭にスケートリンクを作りました。木枠を作って、シートを貼り、少しずつ水を撒き氷を厚くしていきます。しばらくの間使えます。それまでは、寒くなるのが嫌だなとか、寒くならない方がいいなと思っていましたが、家でスケートができるから、寒くなるのが楽しみになりました。子供たちが学校から帰ってきたらスケート靴に履き替えて、そのまま玄関からスケートを滑りに行くというのが冬の風物詩でした。そうした経験を重ねるうちに、“雪国の生活”というが私の中で全く変わったような気がします。




――カナダに移住される前は、日本ではどこを拠点に生活していたのでしょうか?


メインは東京ですね。


――ということは、冬季競技のパラリンピアンとはいえ、雪と密接した生活ではなかったということですね。


はい、日本では雪国での生活はしたことがなかったです。


――それではカナダに移住する際には雪の生活に対する不安もあったのではないでしょうか。


いえ、それが私は逆にカナダには、陸上の夏季大会に出場するなど夏の美しい季節しか来たことなく、冬の厳しさというものを想像していなかったと言いますか、リサーチ不足でした(笑)。


――では、あまり不安に思うことなく飛び込んでいったということでしょうか。


移住すると決めてから、周りの友だちに「冬場は大変だね」とか言われるようになって、ようやく「え!? ちょっと待って、そんなに大変なの?!」となるくらいのほほんとしていましたので(笑)


――なるほど、移住の直前になって「大変かも」と思うようになったということですね(笑)。日本でも冬場の生活が大変だなと思うような経験はありましたか?


冬季競技をしていたときに、長野県の岡谷や北海道の釧路まで練習に行っていたことがあります。そのときにやはり、すぐ目の前の5m、10m先なのに雪が積もっているとこれほど動けないんだとか、荷物を持ってしまうとその重みで車いすが沈んでしまって余計に進めなくなるとか、そういう経験をしました。その時、ここに住んでいる皆さんはどうやって生活しているのだろう?と思いました。私は合宿で来ているから1週間、2週間で東京に帰るので我慢すればいいですし、トレーニングを目的に雪国に行っているので割り切っているのですが、ここで皆さんはどういう生活をされているのだろうというのは全くイメージが付かなかったですね。


――そのマセソンさんが実際に雪国で生活する立場となられて、イメージと違った点などはありましたか?


外は寒いのですが、カナダでは家の中や建物の中はすごく暖かいので、冬は東京の実家に帰ったときの方が家の中は寒いです(笑)。全館暖房の家の中では、寒いからトイレに行くのをどうしようか、布団から出るのが嫌だなというような感覚とは無縁です。暖炉の火を見るのも好きですし、室内はすごく快適です。


一方で、外に出るときに厚着をしなければいけないというのが私にとって初めての経験でした。コート、帽子、ブーツ、マフラー、手袋。身支度にも手間がかかるし、雪かきをしないと出られない日もあるので、冬場は朝の時間が結構かかります。日本にいたときはドアの幅などを考えてできるだけ幅の狭い車いすにしていたのですが、それだとスキーパンツを履くと座れなくなってしまいます(笑)。なので、冬を考えて幅が広めの車いすを作りました。

他には、近くの公園でクロスカントリースキーのコースのようなところで、近所の皆さんと集まることもあるのですが、スポーツしながらの井戸端会議も初めてでした。



マセソン美季(ませそん・みき)

アイススレッジスピードレースで1998年長野冬季パラリンピック大会に出場し、金メダル3個、銀メダル1個を獲得。国際パラリンピック委員会理事、北海道・札幌2030オリンピック・パラリンピックプロモーション委員会委員。